何もしていなくても認められていることに気づく

こんにちは。札幌市中央区にある『カウンセリングこころの羽・札幌中央店』の杉野です。

私は、カフェを巡るのが好きですが、連続して巡ると、間隔をあけずに飲み物を飲むことになるので、お腹がタプタプになりながら飲むこともあります(笑)
なるべくそうならないように気をつけながら、巡るようにしています。

さて、今回は、「何もしていなくても認められていることに気づく」というお話です。

認められたいという気持ち

「もっとがんばらないと」
「あの人がおかしい」

無理をしようとしたり、他人を責める気持ちというのは、

もしかすると、
「自分を認めてもらいけれども、認められない」
そんな思いからきているかもしれません。

そして、
「認めてもらおうとがんばるけれども、認めてもらえない。」
「自分の正しさを主張しても、それでも認めない相手はおかしい」

無理をしているのに、全く認められず、ただただくたびれる。
相手を責めて、余計にこじれてしまい、あきらめや無力感だけが生まれる

そうすると、ますます悲しくつらくなってしまいますよね。

認められたいことに気づく

「認めてもらわなくても構わない」
もし、そう思っているならば、そんなにがんばらないはずともいえます。
そんなに、誰かに対して執着することもないと思います。

そのため、そのがんばりやその執着は、
認められたいという思いがあるからこそである。

そこに気づくことは1つ重要と言えます。

なぜ、がんばっているのか。
なぜ、相手の行動や言動が気になるのか。

理由がわからなければ、困ってしまうからです。

無条件に認められていることに気づく

そして、何より大事なのは、

今は、
「今の自分では認められない」
「あの人は、自分を決して認めない」

そう思っているかもしれないということです。

言い換えると、
「何かの条件の元でのみ、認めてもらえる。」

そう感じているからこそ、
その条件を満たそうとしてがんばろうとします。

あるいは、
「あの人が自分を認めたのは、たまたま条件に一時的に当てはまっただけだ」
そんな風に、思ったりもします。

「何かの条件の元でしか認められない自分」
その中で、日々を生きているなと感じるならば、それは、苦しいもの
ですよね。

また、人は、自分の観念に沿う出来事を見つけようとします。

そのため、何かの条件の元でしか認められないという観念を選ぶと、日々が、そうした日常になってしまいます。

「自分がダメだから、あの人は認めてくれない」
「あの人が認めたのは、たまたま機嫌が良いからだろう」

そんな形で、日常が、不信でいっぱいになってしまいます。

無条件で認められていることに気づく

ただ、一方で、何をしても、認めてくれる人。
そういう人はいるはずです。

たしかに、普段は、それぞれの立場から、あれがいけない、これがいけない。
そんな風に、意見の応酬をしているかもしれません。

「親として、上司として、先生として」
「子として、部下として、生徒として」

それぞれの立場に沿った振る舞いをしたり、意見を言い合っている場合もあるものですよね。

しかし、困りごとがあれば、助けようとする。
意見が合わなくても、見捨てたりはしない。

そんなふうに、
「無条件で自分を認めてくれているな。」
それを感じさせる場面があるはずです。

それらを思い返し、見つけ、感謝することは、
「無条件で、認められている自分」を見つけることになります。

無条件で認められていることに気づけば、
がんばる必要はありません。

相手に不満を持ったとして、不満を持たれたとして、
最終的に認めてくれているならば、不信になる必要もありません。

そうした事実に気づくことで、グッと生きやすくなるといえます。

「認められるためにがんばっている。」
「自分の正しさを今日こそは相手に理解してもらおうと思っている。」

そんなとき、一旦、アプローチを変えて、無条件で認められていると思える部分を探してみる。

そのことで、自然と感謝が生まれます。
このままで良かったということに気づきます

そうすると、がんばらずとも、自分の正しさをわかってもらおうとしなくとも、認められていると感じながら、楽に生きていくことにつながるといえます。

最後までお読みいただきありがとうございます!

『カウンセリングこころの羽・札幌中央店』杉野誠